主な展示作品 EXHIBIT

INTRODUCTION

The Artist
アメデオ・モディリアーニ《マックス・ジャコブ》

Modigliani1884–1920

アメデオ・モディリアーニ

《マックス・ジャコブ》1916–1917年頃

モディリアーニの特徴である細長い頭と首、アーモンド形の目、幾何学的な顔立ちは、特にコートジボワールのバウレ族の仮面に対する彼の称賛を反映している。これらの特徴はマックス・ジャコブの肖像にもよく現れており、三角形の顔の中央に黒いアーモンド形の目が置かれ、アーチ状の眉によって強調されている。
モデルであるジャコブは、フランス・ブルターニュ地方のユダヤ人の家庭に生まれ、1921年ごろにカトリックに改宗した。彼の最初の詩集にはピカソが挿絵を描き、美術商ダニエル=アンリ・カーンワイラー(1884–1979)によって出版された。ジャコブは、断片的な物語と支離滅裂な言い回しでキュビスムの価値観を再現した1917年の散文詩集『骰子筒』で最もよく知られている。
モディリアーニはこの肖像と同時期に同じモデルの胸像の作品(ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館、デュッセルドルフ)も制作しており、その上隅にジャコブの名前を記し、右下に署名と日付を入れている。デュッセルドルフにあるこの胸像では、ジャコブはシルクハットにオーバーコート、装飾的なネクタイを身に着けている。モディリアーニはネクタイの模様を右目に再現することで、キュビスムによるテキストやテクスチャ、主題と相互に作用する多層的で遊び心のある性質を示唆している。

TRADITION

The Academy
ジェームズ・ティソ《日本の工芸品を眺める娘たち》

Tissot1836–1902

ジェームズ・ティソ

《日本の工芸品を眺める娘たち》1869年

ティソは、ナントで繊維関係の仕事をする両親のもとに生まれた。その生い立ちが、フランスやイギリスのファッションを写実的に描く作風の助けになったに違いない。ティソは生涯を通じて、上流中産階級の生活の喜びや娯楽を描き続けた。ブルジョワ階級の生活を精緻に描いたその風俗画は、国内外の画家や批評家、サロン来場者から評価を得た。本作は、1869年にパリで臨時東洋美術館アジア美術ギャラリーを訪れる人々から発想を得たもので、ティソはそのモチーフを自らのアトリエに置き換えて描いた。日本美術の熱心な収集家、愛好者であった彼は、パリのアトリエ兼住居を自らのコレクションで飾り、その多くが《日本の工芸品を眺める娘たち》にも登場する。本作は「見る」という行為を二重に表現した作品ともいえ、豊かな素材と多様な質感で満たされた室内で模型の船をじっくり観察する二人の女性を描き、鑑賞者にもその二人の姿を注意深く見つめるよう促す。
ティソの細部にまで及ぶ描写について、ある同時代の批評家はこう評した。「私たちの産業や芸術の創造物は滅び、道徳や流行は忘れ去られるかもしれないが、ティソの絵画は未来の考古学者にとって、私たちの時代を再構築するのに十分な資料となるだろう」。ティソは本作と主題的に関連する作品をさらに2点制作しており、同じ女性モデルたちが別の展示品と共に描かれる。本作は1869年のパリ・サロンに出品された後、画商グーピルに売却され、グーピルはすぐにアメリカで売却した。

REVOLUTION

The Rebels
ポール・セザンヌ《パンと卵のある静物》

Cezanne1839-1906

ポール・セザンヌ

《パンと卵のある静物》1865年頃

《パンと卵のある静物》は、ポール・セザンヌが1860年代に制作した、暗く重厚な質感をもつ十数点の絵画のうちの一点である。形態を簡略化し、絵具を粗く塗る表現によって、セザンヌは当時のパリ美術界が公認する伝統的様式に異議を唱えた。既存の絵画の規範に対する彼の反発は、おそらく本作が1865年のサロンで落選した理由だろう。
父は成功した銀行家であったが、当初は息子の画家としての道を支援していなかった。1860年代半ば、セザンヌはパリで画家としての地位を確立しようと、エクス= アン= プロヴァンスにある実家とパリを行き来しながら質素な生活を送っていた。経済的な制約もあってか、本作はモデル不明の肖像画の上に重ねて描かれたと考えられている。画家は画面にパン、玉ねぎ、卵といった質素な食卓の品を配置している。
セザンヌは自然界の根底にある構造を捉えることに注力した。風景画や肖像画に加えて、静物画においてもその意識を持ち、まっすぐな観察と、かたちや色彩に対する体系的かつ分析的なアプローチとの調和を図ろうとした。革新的な技法と視覚認識への絶え間ない探求によって、セザンヌは19世紀の写実主義から20世紀のモダニズムへの橋渡し役として重要な位置を占め、後の多くの芸術家たちのインスピレーション源かつ試金石となった。

ギュスターヴ・クールベ《ジュラ山脈の峡谷》

Courbet1819-1877

ギュスターヴ・クールベ

《ジュラ山脈の峡谷》1873年

《スイス、ヴヴェイの夕暮れ》のような作品は、19世紀後半に急増した風景画を求めるコレクターたちに好評を博した。本作はシンシナティの判事でオハイオ州知事でもあったジョージ・ホードリーが購入し、後にシンシナティ美術館に寄贈され、初めてアメリカに渡ったクールベ作品となった。クールベは夕焼けの淡いピンクとブルーを岸辺の岩場のグレーと見事に調和させた。岩の描写にはクールベ独自のパレットナイフの使い方が用いられており、空や水面の滑らかな筆致と対照的である。自然を誠実かつ触覚的に表現することで、クールベはフランス風景画の方向性を刷新し、クロード・モネら印象派の発展への道を開いた。クールベの生涯は政治的、芸術的な論争に彩られ、最後は亡命を余儀なくされたが、19世紀ヨーロッパ美術においてクールベが重要な人物として位置づけられることは間違いない。

REVOLUTION

Impressionism
クロード・モネ《べリールの岩場、ポール=ドモワ》

Monet1840–1926

クロード・モネ

《べリールの岩場、ポール=ドモワ》1886年

1886年9月、モネはブルターニュ沖のべリール島へ向かった。当初は2週間の予定だったが、結局2か月滞在することになった。その間、島の町並みと険しい海岸線を描いた作品を約40点制作した。後に妻となるアリス・オシェデへ宛てた手紙でモネは「君は僕の海への情熱を知っているだろう。僕は海に心を奪われている」と書き、べリールの岩や洞窟を「不気味で、悪魔的だが、だからこそ素晴らしい」と記している。
《ベリールの岩場、ポール=ドモワ》では、モネは島を囲む荒々しい地形と海の表情を見事にとらえている。穏やかな英仏間の海峡を描き慣れていたため、この風景は描くのが難しかったと彼は語っているが、本作は感情表現と視覚的正確さの両方を意識した作品だ。深い青と紫を基調に、温かみのある黄色やピンクが散りばめられたモネの色使いは、日暮れの情景に荘厳さを与えている。同じ風景をモネは5点描いており、そのうち1点は横長(パリ・オルセー美術館蔵)、残る3点は本作と同じ縦長だ。いずれの作品も高い地平線と鋭い筆致で描かれた「エギュイユ(針岩)」が際立ち、これらは形からしておそらくポール=ドモワの岩礁だろう。作品群を見比べると、モネがドラマチックな海岸線の苛々しい岩場に降り注ぐ、刻々と変化する日の光を捉えようとしていたことがうかがえる。

エドガー・ドガ《左脚で立つ第4ポジション》

Degas1834–1917

エドガー・ドガ

《左脚で立つ第4ポジション》1883–1888年頃

バレエへの強い関心はドガの作風を特徴づける重要な要素であり、作品の約半数が稽古中や休憩中、上演中のダンサーを題材としている。彼はオペラ=ガルニエやパリ各地の稽古場で目にした踊り子たちを、絵画・デッサン・パステルで記録した。
1917年の死後、ドガのアトリエからは約150点の劣化したワックスや粘土の小像が発見された。これらのマケットは、さまざまなポーズをとる踊り子たちで、ドガの動きと形態への徹底した探究を物語っており、二次元のデッサンや絵画に還元するための実験的な習作だった。この像では裸体の踊り子が右脚を上げて、腕の第4ポジションをとる。ドガはあえて顔や衣服の細部を省き、これらを物語や装飾ではなく、女性の姿勢とプロポーションの研究に徹した習作とした。彼はワックス像をブロンズ化しようとはせず、生前に彫刻を公開したのは1881年の印象派展で《14歳の小さな踊り子》を出品した一度きりだった。のちに相続人たちは74点のワックス像を修復し、エブラール鋳造所で限定的にブロンズ鋳造することを承認した。

アルフレッド・シスレー《ブージヴァル》

Sisley1839–1899

アルフレッド・シスレー

《ブージヴァル》1876年

シスレーがフランス各地を描いた風景画は、その簡素さゆえに、一見すると平凡にさえ見えるかもしれない。制作過程について語る際、彼は様々な技法- 特に光と影を描き分ける- を駆使して絵具を塗る必要性を強調した。風景画を描く際には、まず空から描きはじめることを好んだ。空こそが風景の雰囲気をつかむ鍵だと考えていたからである。シスレーはコンスタブルと同様に、それぞれの作品で気象の細部にまで注意を払い、それによって理想化された風景ではなくそれぞれの特徴のある風景を描き出した。
パリ西方、セーヌ川沿いのブージヴァルは、パリ市民に人気の行楽地であり、商工業の拠点へと発展していた。シスレーは1872年から1877年までそこに住み、町の川岸を繰り返し描いた。《ブージヴァル》では、画面の大部分を鮮やかな青い川と陽光に満ちた空に割いている。彼は厚塗りの筆致によって、波打つ水面、流れる白い雲、蒸気機関車の煙の動きを捉えている。その後数年で、シスレーの絵画技法は、《ブージヴァル》 に見られるような丁寧に配置された幅広い筆致から、《モレの夕暮れ》などにみられる短いコンマ状の筆触へと変化していく。

REVOLUTION

After Impressionism
フィンセント・ファン・ゴッホ《ポプラ林の中の二人》

Van Gogh1853–1890

フィンセント・ファン・ゴッホ

《ポプラ林の中の二人》1890年

1890年夏に描かれた《ポプラ林の中の二人》は、同年7月に亡くなったファン・ゴッホが、生前最後に仕上げたとされる作品のひとつ。6月には弟テオへ、「横1メートル、縦はわずか50センチ」という珍しい寸法のキャンバスに取り組み始めたと伝えている。また、紫がかったポプラの幹が「柱」のように見え、風景を垂直に横切っているとも記している。7月初めの手紙の中には、ポプラ並木の間を歩く二人の人物のスケッチが描かれており、彼らの足元に生える長い草や花が円や短い鋭い線で表されている。
高い視点から描かれた画面は、地面の草木の繁茂に多くの面積を割き、上部の細い暗い帯が奥の森の深さを示す。人物を取り囲む木の幹は画面いっぱいに伸び、木の先端部は切り取られている。暗い紺碧の背景と縞状の紫の樹皮は、下草の緑や白、黄色、オレンジと鮮やかに対比し、どこか不穏な印象を与える。印象派が色と光の効果を忠実に記録しようとしたのとは異なり、ファン・ゴッホは色を象徴的に用いていた。彼は弟への手紙で、「目の前にあるものをただ正確に再現するのではなく、自己を強く表現するために、色をより恣意的に使っている」と述べている。

ポール・ゴーギャン《マハナ・マア》

Gauguin1848–1903

ポール・ゴーギャン

《マハナ・マア》1892年

タヒチに初めて滞在したゴーギャンは、ブルターニュで培った総合主義的技法と、現地の題材を融合させた作品を制作した。《マハナ・マア》では、非写実的な色彩と曖昧な形態を用いて鬱蒼とした樹葉を描き、風景に生気を与えている。茂みの奥から一人のタヒチの女性がこちらを見つめ、遠景には別の人物が通り過ぎる。タイトルは、タヒチの暦で食料の調達に当てられた特定の曜日を指すのかもしれない。
この絵は、ゴーギャンが逃れたヨーロッパより自然と調和した文化、人里離れた神秘的な環境といった彼の初期の理想を反映している。二つの技法のディテールから、ゴーギャンがこの時期に試みた実験が明らかになる。X 線撮影によって、もともと前景に大きな人物像が描かれていたことが確認されるが、ゴーギャンは後にその上に植物を描いて塗りつぶしている。また1892年10月には、キャンバスが不足していたためにキャンバスを切ってスケッチや小作品に使っていたらしく、この作品の珍しいサイズはそのためかもしれない。

MODERNISM

Figuration
パブロ・ピカソ《抽象(頭部)》

Picasso1881–1973

パブロ・ピカソ

《抽象(頭部)》1930年

本作でピカソは、抽象化された女性の頭部(最初の妻オルガ・コクローヴァと思われる)を描いている。女性は泣いているか、叫んでいるように見える。ピカソは彼女の顔の特徴を歪め、大きく空洞化した口を強調し、両方の菱形の目を顔の片側に縦に配置している。人物はグリザイユ(灰色の濃淡)で描かれており、肌に石のような質感を与えている。ピカソは正式にはシュルレアリスムのメンバーではなかったものの、1920~30年代にこのグループが潜在意識を通じて芸術的真実を探求する姿勢に影響を受け、より自由に形態を表現するようになった。

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フェルディナント・ホドラー《聖なる時間》

Hodler1853–1918

フェルディナント・ホドラー

《聖なる時間》1907–1911年頃

フェルディナント・ホドラーは1871年、ジュネーブの美術学校(エコール・デ・ボザール)で学び、スイス各地の風景画で早くから注目を集めた。その後、1880年代にフランス発祥でヨーロッパ各地に広がった象徴主義の重要な画家となった。ホドラーは多くの象徴主義の画家と同様、自然を忠実に再現するのではなく、感情や形而上学的な概念を表現するべきだと考えていた。愛、恐怖、精神性、性、死といったテーマは、象徴的に解釈されることが多く、とくに女性の姿を通して表現された。ホドラーは「パラレリズム(平行主義)」と呼ぶ独自の象徴主義を追求し、作品における対称性やリズムを重視した。彼の絵画はしばしば大規模で、構図全体に均等に配置された人物を描くことで、時代を超えた感覚を与える。本作では、即興的な動きを通じて感情を表現するダンサー2人を描いている。内面の感情を外面的な動作に翻訳するこの表現方法は、ホドラーが自身の絵画でも思想や感情を表現する際に追求した手法だった。